春は彼方
第六話
作 松岡広大
なんでそんな顔してるの、
嬉しそうな、哀しそうな顔をして。そして怒っているような。
いつもだったら、優しい顔、安心させてくれる表情だけなのに。ただでさえ私は人の表情から気持ちを感じ取るのが苦手だから、その複雑な表情からは何が秋人くんの中で渦巻いているのかわからなかった。
「付き合ってないの?」
か細く、声にもならない声で、秋人くんがまた聞く。
「うん。葵くんと付き合っていないよ。ただ最近は同居人として、一緒に生活していく人として、ちゃんと付き合えていないかな〜」
秋人くんの顔から怒りを取り除きたくて、この切迫感と違和感が混在した空気を、いつも通りの身体のどこにも引っ掛かりがないまま通過してほしかったから、微笑を浮かべながら伝える。
なんだか、空気が空気じゃない。
和ませるというか、元に戻さないと。
「なんで笑えるの」
笑顔を引っ張り出せると思ったら、逆の感情の紐を掴んでしまった。嬉しいような顔はいなくなり、哀しみと怒りが数秒前よりも出てきていた。私にもわかった。
「急で、わからなくさあ、」
本心を伝えると呼吸ができなくなってしまうだろうから、濁して答える。次は掴む紐を間違えられない。微笑を誇張していく。
なんか、怖いよ、秋人くん
「笑えないよ。なにも。
これまで二人の関係を変に意識して距離も考えて俺は邪魔かなとも思って」
「邪魔だなんて、普通でいい(のに)」
「知らないでしょ。」
私に当ててないように言った。
「何を?」
「普通でなんかいられるかよ、見たんだ。キス。」
初めて聞いた、感じた、秋人くんの攻撃的で怒りの声を。
「えっ?」
呼び起こすまいと思っていたあの記憶が、
匂いや白の吐息、唇の感覚と胸の鼓動たちを、キスという言葉を引き金に私の元に飛ばしてきた。
「見てたの?そこにいたの?」
私ははっきりと聞く。
「うん、見た。」
あまりに端的でざわつく言葉。
「あぁっ、あの時から気まずくて、でも私は普段通りに過ごさなきゃと思って、それで、誕生日近いから、そこからまた、気楽に話せるようになったらいいなって、」
私の声は不自然なくらいに震えていた。
もっと細かく説明しなきゃ、でも言葉が上手く出てこない。途切れたらいけない。
でも弱っちゃいけない。戻さないと。
「キスについては何も言わないんだね。なんか、今日俺は二人のキューピット的立ち位置なんだね。二人が幸せになってもらうべく」
変に大きく笑って見せる秋人くん。
「そうじゃないの、なにか勘違いしてるよ?
だから、そういうことじゃなくて、本当になにもないの。一回落ちついて話そうよ、ね?」
もう私の鼓動は聞こえてる、なんで誰も気づかないの、こんなにうるさいのに。
私の中で跳ねてる。苦しい。恐い。戻さないと。
戻れなくなる。
鋭く早く一息吸って
「あのさ、誰が好きなの、ゆりちゃんは。」
淡々と私に伝える。冷たく。核心を突くように。
「二人とも、大切で、かけがえないよ、」
「違う。誰が“好き”か、聞いてるの。
ねえゆりちゃん、そのカメラで俺を撮ってよ」
「それは、大切な人しか撮りたくなくて」
「うん。だから撮れるよね、大切って言うなら。」
自分の規範、空や風景は毎日違う表情を私に見せてくれる。だけど、大好きな人はその人のままでいて欲しい、色褪せずにいて欲しい。現像しても、現存しているこの世界でも。そんな、変わらない人を撮りたいから、私は本当の意味で撮りたい人を見つけられていない。
「ねえ、撮って」
もう止まりそうにない。
ルールを破るしか、直る方法はないのかな。
私は首から提げたカメラのファインダーを覗き込もうとする。
シャッターを切るボタンに人差し指を添えようと試みる。
できない。
なんで、、
「できない、、」
「早く撮ってよ!」
「できないの!!すごく重いの、カメラにも指にも、まるで鉛が着いているようで、思うように動かないの!動かせないの!」
カメラのレンズに突然の豪雨。すぐに水溜りを作った。周りの人たちは傘を差していない。
こんな大粒の雨なのに。
「それに、今の秋人くんは、撮りたくないの、それに、残したくない」
こんなに大きな声で、鋭利な言葉を突き立てたことはなかった。柔らかく、全てを歩きたかったから。波も、角も立たない、そのためには自分の気持ちを押し殺すこともしてきた。
だけど、出来なかった。
わからない。
「ゆりちゃん、嘘つきだね」
秋人くんは駅とは違う方向へ歩いて行った。
帰る場所は同じなのに。
そっちじゃない、そうしたくないのに。
どっちが好きかなんてわからない、決めなきゃいけないの?こんなに人を傷つけてしまう
なら、“わからせないままで”いさせてほしいよ。
そうやって逃げていたのかな、伝えたいことは後回しにして大事な決断は二人に任せてき
た。
一人だとなにもないのか、私は。でも今は本当に、わからない。
街の人々が、傘を広げ始めた。
カメラと、自分が水に溶けていかないように、私を抱きしめて守る。
心の傷の鮮血、桜の花びらが地面に溶けていく。
【著者】
松岡広大(まつおか こうだい)
1997年8月9日生まれ。
主な出演作品は舞台「ねじまき鳥クロニクル」、
ライブ・スペクタクル「NARUTO-ナルト-」(主演)、映画「いなくなれ、群青」など。
NHK Eテレ「ボキャブライダー on TV」(月曜5:45~O.A)、
JFN PARK「松岡広大のDressingPark」(隔週日曜22:00~配信)に出演中。